5人兄弟の長女として、特に不自由なく育てられましたが、やがて戦争が始まり、否が応でもその渦中に巻き込まれていきました。
16歳の夏、それは8月6日のことでした。朝8時15分、突然強く鋭い光が走り、すさまじい地響きが広島の街を襲いました。一瞬、何が起きたのか分かりませんでした。大きなビルが崩れ、あちらこちらで火の手が上がり、泣き叫ぶ人々の声が飛び交っていました。アメリカ軍の爆撃機から投下された原子爆弾でした。
両親を失った私は、同じ広島県に住む叔母に引き取られました。叔母は当初、優しく接してくれているように思いました。
しかし、そのまま結婚した後、次第に叔母の態度が変わっていきました。
街中で育ったため、田んぼや畑仕事は一度もしたことがありませんでしたが、慣れない農作業もしなければなりませんでした。朝早くから夜遅くまで、私なりに一生懸命努めましたが、なかなか思うようにはいかず、なぜこんなこともできないのかと責められることもたびたびで、何度身を投げようと川辺に立ったか知れません。
しかし、最後の最後で飛び込む勇気はなく、また、生きてさえいれば何かあるのではと一筋の希望をつなぎ、歳月は流れていきました。
やがて、マスの養殖を手がけていた主人が、ある人の勧めでヤマメの養殖を始めることになりました。同じ魚でも種類が違うと、育て方も全く違います。主人と2人で、あちこちの養殖業者を回って頭を下げ、育て方を学ぼうとしましたが、なかなか快く教えてくれる人もなく、何度も失敗を繰り返しました。
あれこれと試行錯誤した結果、徐々に事業も軌道に乗り、将来は子供たちに後を継がせようと養殖の技術も教え、主人と2人、ようやく安堵の日々を過ごしました。
ところが、そんな時期も長くは続かず、主人が突然、帰らぬ人となりました。これからという時に主人を失い、何を支えに生きていけばよいか、生きる方向を失ってしまいました。
そんな時、義理の姉が親鸞聖人の教えを勧めてくれたのです。姉は若い頃から親鸞聖人の教えを求めており、親鸞会で高森顕徹先生の法話を聴聞するようになっていたのです。姉の勧めで、初めて親鸞会館に参詣しました。
生死の一大事を知らされ、かつて何度も身を投げようと川辺に立ったことを思い出すと、もしあの時、飛び込んでいたらと思うと、背筋が凍る思いがします。
仏法を聞くために生かされた命と受け止め、一座一座の法話を大切に求めさせていただくと共に、今はまだ伝えることができずにいる息子夫婦、孫たちにも、ぜひとも親鸞聖人の本当の教えを伝えたいと思っております。
