平生業成
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「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」という言葉をご存じでしょうか。
こう尋ねると、「天上天下唯我独尊」と背中に書いた特攻服を着てバイクを走らせる暴走族の映像が頭の中に浮かんだかもしれません。
この場合の「天上天下唯我独尊」は、「この世界で俺だけが偉い」という意味で使われています。
他にも「あいつは唯我独尊だ」とか、「あの人は、独尊家だから嫌い」と言います。これも「自分だけが偉い」と思っている人を指して使われているのでしょう。
しかし、本来の意味はそうではありません。
そもそもこの言葉は、お釈迦様が生まれた時に言われたものなのです。
お釈迦様といえば世界の三大聖人にも数えられるお方です。
「実るほど頭の下がる稲穂かな」の諺どおり、徳の高い人ほど物腰は低く、自己顕示を恥じるものです。仏徳を備えられたお釈迦様が、"オレ様がいちばん尊い"などと仰るはずがありません。
では、「天上天下唯我独尊」の本当の意味は何なのでしょうか。
お釈迦様が生まれられた時のエピソードからお話しいたしましょう。
4月8日は、仏教を説かれたお釈迦様の誕生日です。
この日を「花祭り」といい、小さな釈迦像に甘茶をかけているのを見られたことがあるかもしれません。
なぜ「花祭り」というのかといいますと、お釈迦様がルンビニーという花園で誕生されたからです。
当時、インド北部で栄えた釈迦族の長・浄飯王と后のマーヤー夫人には、永らく子供が恵まれませんでした。ところがある時、待望の世継ぎを懐妊しました。
初産であった夫人は、里帰りのため故郷の隣国へと向かいます。ところが、予定より早く産気づき、帰途にあったルンビニーの花園で、後のブッダ、お釈迦様となるシッダルタ太子を出産されました。
この時、太子は、右手で天を、左手で大地を指さしてこう宣言されたといわれます。
いかにお釈迦様でも、生まれてすぐに話されるはずはないでしょう。実は、ここに、あなたにとって実に大切なことが教えられているのです。
それは一体何か。順番にお話ししたいと思います。
まず天上天下唯我独尊の「天上天下」とは、「天の上にも、天の下にも」ということで、大宇宙のことをいいます。
非常にスケールが大きいですね。
ちなみに仏教では、この地球のような世界を須弥(しゅみ)世界といい、それが千個集まったのを小千世界といいます。
さらに、小千世界が千個集まって中千世界。中千世界が千個集まると大千世界。この三つを合わせて三千大千世界といい、それが東西南北上下に無数に存在し、これを十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)と説かれているのです。
今日の天文学でいえば、太陽を中心とした惑星の集まりを太陽系。その太陽系のようなのが約二千億集まったのを銀河系といいます。
その銀河系も宇宙の中では、大洋に浮かぶ島みたいなものだから島宇宙ともいわれる。
その島宇宙が、無数に存在しているのが大宇宙。
まるで仏教に説かれる十方微塵世界そのものです。
昔の人は、「地球は丸い」と言っても誰も信じませんでした。
下の人は落っこちてしまうから、地球が丸いなどという発想すらなかったでしょう。
当時の印度の世界観について親子が会話すると、こんな感じでした。
そんな世界観だった当時、お釈迦様が今日の天文学を先取りしたようなことを仰っているのは驚くべきことです。
続けてお釈迦様は、「唯我独尊」と言われています。
先にもお話ししましたように、一般には、「ただ自分だけが偉い」という意味だと思われていますが、そうではありません。
これは「唯我独尊」の「我」の意味を間違えたところからおきる誤解です。「我」は釈迦だけではなく、我々すべての人間のことなのです。
釈迦自身を表す「われ」は、この後の「吾当安此」の「吾」が使われます。
「我々人間だけ」とは、もっといえば「他の生き物ではなく我々人間だけ」ということです。
私たちは、人間に生まれたことを当然のように感じがちですが、本当は決して当たり前ではありません。
お釈迦様はこうも仰っています。
「人身受け難し、今已に受く」
とは、生まれ難い人間に生まれることができてよかった、という生命の歓喜です。
いかに人間に生まれ難いか。お釈迦様は『雑阿含経』(ぞうあごんきょう)に、有名な「盲亀浮木の譬」(もうきふぼくのたとえ)で説かれています。
ある時、お釈迦様が
「例えば、大海の底に1匹の目の見えない亀がいて、100年に1度、海上に浮かび上がるのだ。その海には、1本の浮木が流れている。その木の真ん中にはひとつ、穴が開いている。目の見えない亀が100年に1度、浮かび上がった時、ちょうどその浮木の穴へ頭を突っ込むことがあるだろうか」
と尋ねられた。阿難という弟子が、
「そんなことは毛頭、考えられません」
と答えると、お釈迦様は、
「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが何億兆年よりも永い間には、絶対にない、とは誰も言い切れない。
人間に生まれることは、これよりも難しい。有り難いことなのだよ」と仰っています。
私たちが日常口にする”ありがとう“は、仏教から出た言葉で、本来は”有ることがまれである“の意味です。
「他人から何か施してもらうことは、めったにない、有り難いことである」
ということで、ここから転じて「ありがとう」が感謝の言葉となったのです。
人間に生まれたことはいかに有り難いか、数の上から考えてみましょう。
例えば地球上には、およそ137万種の動物が確認されており、未発見の生物種も含めれば800万種以上ともいわれます。
その中の1種、マンボウという魚だけでも、一匹で3億個もの卵を産むといわれます。
人間とは比較にならない生物が存在し、多くの生命が誕生する中で、ありえないほどの確率で生まれてきたのが我々人間なのです。
次に天上天下唯我独尊の「独尊」とは、どのような意味なのか、お話しいたします。
「独尊」とは、「たった一つの尊い目的」ということです。
ですから、「天上天下唯我独尊」とは、「ただ我々人間にのみなしうる、たった一つの尊い目的(独尊)がある」という意味なのです。
つまり、我々人間の命に差別はなく、皆、平等に尊いということです。
頭のよしあしも関係ない。
人種も性別も差別ない。
有名かどうかは関係ない。
人気者もかどうかも関係ない。
地位の高さも関係ない。
働けず寝たきりであっても関係ない。
皆、平等に尊い目的を持っていると説かれています。
そのたった一つの尊い目的を教えられたのがお釈迦様なのです。
ですから、お生まれになられた時「天上天下唯我独尊」といわれたのは、釈迦生涯の教えは、人生の目的以外になかったことを象徴しているのです。
では、次に「天上天下 唯我独尊」のあとに続くお釈迦様のお言葉についてお話しいたしましょう。
「天上天下唯我独尊」のお言葉の後に、お釈迦様は「三界皆苦 吾当安此」(さんがいかいく ごとうあんし)と言われています。
「三界」とは、「苦海」「苦界」ともいわれ、私たちが住む世界を、三つに分けて教えられています。
いずれも苦しみ迷いの世界ですから、「皆苦(皆、苦なり)」と言われます。
哲学、思想の世界でも残念ながら人生の目的は明らかにされていません。
たとえば、精神分析の創始者、フロイトは、こう言っています。
19世紀後半「神は死んだ」と宣言したドイツの哲学者、ニーチェは、こう述べています。
現代においても、アメリカの倫理哲学者、フィリッパ・フットは、こう書き記しているのです。
しかし、お釈迦様は、この苦悩渦巻く三界にいながら、誰もが本当の幸福になれるのだよ、と仰います。
その言葉こそ「吾当安此(吾、まさに此を安んずべし)」です。
仏教を聞けば、どんな人も本当の幸せになれることを、ここで断言されているのです。
先の「人身受け難し」のお言葉では、「この身今生に向って度する」と表されています。
「此を」「この身」「今生に」とは、いずれも「この世で」ということであり、「安んず」「度する」が本当の幸福になったこと。生きている今、男女、年齢、貧富の差、人種や民族に関係なく、誰でも絶対の幸福になれる。これが、私たちが人間に生まれてきた本当の意味であり、今がこの幸せになれる最大のチャンスです。
仏法を聞けば、「天上天下、この広い大宇宙で、今、私が生まれてきたのは、この幸せになるためであった」と心から喜べる人生が開かれるのですよと教えられたのが「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此」というお言葉であり、これを浄土真宗の親鸞聖人は「平生業成(へいぜいごうじょう)」と教えられました。
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