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破戒僧として非難攻撃されることも恐れず肉食妻帯を断行された親鸞聖人を、文豪・夏目漱石は「大革命だ」と驚嘆しました。なぜ親鸞聖人は大変な中傷を覚悟の上で肉食妻帯を決行されたのでしょう。
比叡での修行に行き詰まられた親鸞聖人は泣く泣く山をおりられます。その後、京都で法然上人と出会い、真実の仏法を聞かれるようになるのです。そして…
今回は、親鸞聖人と法然上人の出会いについてお話しいたします。
9歳で仏門に入って20年、親鸞聖人は比叡山で血を吐く難行苦行に専心されました。
その修行は峻烈を極め、こんにちの千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)も比ではありません。
千日回峰行とは、12年間、比叡山に立て籠もり、そのうちの7年間は明けても暮れても、山の峰から峰を歩き続ける修行です。
真夜中の12時前に起きて、山の上と山の下の行者道を30キロ歩き、300カ所以上も修行する場所があります。はじめの3年間は、毎年100日。次の2年間は、毎年200日。その翌年は、100日。最後は200日で合計、1000日。その間、歩く距離は4万キロに及び、地球1周に相当します。
もちろん、雨の日だろうが、風の日だろうが、吹雪でも、病気になっても修行は続行です。もし途中で挫折した場合、持参の短刀で自害するのが、比叡山の掟になっています。実際、江戸時代には、多くの修行者が自害しました。
修行を始めて5年目には、9日間、堂の中に立て籠もって、食と水を断ち、眠るはおろか、横にもなってもいけない決死の修行があります。命を落としてもおかしくない荒行です。
親鸞聖人は、それ以上の難行を完徹なされました。しかし、後生暗い心に灯りはともらなかったのです。それどころか知らされるのは、欲や怒り、うらみねたみといった煩悩にまみれた醜い自己の姿ばかりだったのです。
そんなある静寂な夜、比叡の山上に立ち、琵琶湖を見下ろす親鸞聖人。鏡のように静まった琵琶の湖水が目に映る。今は観光の名所となっている比叡山ですから、普通なら美しい琵琶の湖水に酔うところです。しかし、親鸞聖人の思いはまったく違っていました。
「ああ、あの湖水のように、私の心はなぜ静まらないのか。静めようとすればするほど散り乱れる。
思ってはならないことが、ふーっと思えてくる。考えてはならないことが、次から次と浮かんでくる。どうしてこんなに浅ましい心が逆巻くのか」
涙に曇った眼を天上に移すと、満月がこうこうと冴えている。
「どうして、あの月のようにさとりの月が拝めないのか。次々と煩悩の群雲で、さとりの月を隠してしまう。こんな暗い心のままで死ねば私の後生はどうなる。この一大事、一体どうしたら解決できるのか……」
もはや一刻の猶予もならぬと、親鸞聖人は居ても立ってもおれない不安に襲われました。
「どこかに、煩悩に汚れ、悪に染まった親鸞を、導きたもう大徳はましまさぬか……」
かくして修行による救いに絶望した親鸞聖人は、山を下りる決意をされたのです。
29歳の春でした。
重い足取りで京都の街をさまよわれた親鸞聖人。
四条大橋に差しかかった時のこと。
聖人は、比叡山での旧友、聖覚法印(せいかくほういん)と人生を変える再会を果たすのです。
聖覚法印は、親鸞聖人より先に下山し、法然上人のお弟子になっていました。
法然上人は、出家も在家も差別なく、老若男女、貧富に関係なく、すべての人が救われるのが真実の仏法、阿弥陀如来の本願であると明らかにされた方です。阿弥陀如来の本願とは、あらゆる仏の先生である阿弥陀如来という仏のお約束です。
それは
どんな人も、聞く一つで、後生暗い心を晴らし、絶対の幸福に救う
というお約束です。
激しい修行を積まねば、暗い心の解決はできぬと思われていた親鸞聖人にとって、どんな人も煩悩あるままで絶対の幸福に救われるとは青天の霹靂(へきれき)でした。しかし、経典に裏付けられた教えに、これこそ真実の仏教であり、煩悩いっぱいの自分が救われる唯一の道と確信されるのでした。
それから親鸞聖人は、雨の日も風の日も、真剣に仏法を聞かれました。そして、阿弥陀仏のお約束どおり、後生暗い心が晴れ渡り、絶対の幸福の身になられたのです。建仁元年、親鸞聖人29歳の時でした。
「生きている今、絶対の幸福に救うという阿弥陀如来の本願、まことだった! 嘘ではなかった!」
感泣された聖人は、もし、法然上人が阿弥陀仏の本願を説き切ってくだされなかったら、生まれ難い人間に生まれながら、また空しく永久の流転を続けていただろうと述懐されています。
直ちに法然上人の弟子になられた親鸞聖人は、「こんな極悪の親鸞を、無上の幸福に救ってくだされた阿弥陀仏の大恩は、身を粉にしても骨を砕いても返さずにおれない」と、弥陀の本願ただ一つ、生涯伝え続けられたのです。