次の記事:下山される親鸞聖人 そして法然上人との出会い
比叡での修行に行き詰られた親鸞聖人は泣く泣く山をおりられます。その後、京都で法然上人と出会い、真実の仏法を聞かれるようになるのです。そして…
親鸞聖人は、一体、何を求めて出家されたのでしょう。それは私たちにとって非常に大事な問題がきっかけでした。なぜ親鸞聖人は出家されたのかについてお話しいたします。
親鸞聖人は、一体、何を求めて出家されたのでしょう。それは私たちにとって非常に大事な問題がきっかけでした。なぜ親鸞聖人は出家されたのかについてお話しいたします。
親鸞聖人はわずか9歳で出家されました。出家とは、家庭生活を捨て、修行の道を進むことです。
9歳といえば、今日では小学3年生のころ。カブトムシやクワガタに夢中になったり、現代ならカードゲームで遊んでいる年ごろです。そんな子供の時期、「寺に生まれて後を継ぐためでもないのに、どうして?」と誰しも思うでしょう。実は、「波乱万丈」の生涯を送られた親鸞聖人は、幼少期から波乱の幕開けでした。何があったのか。出家にまつわる次の話が語り継がれています。
親鸞聖人のお父さまの名は藤原有範(ありのり)、お母さまの名を吉光御前(きっこうごぜん)といわれました。両親の愛情に育まれ成長された聖人でしたが、4つの時にお父さまと悲しい別れをなされ、8つの時にはお母さまを亡くしておられます。片親を失っても大変なこと。8歳にして天涯孤独の身となられたお気持ちはいかばかりだったでしょう。お父さん、どこへ行ったんだろう、お母さん、今はどこにいるんだろう、もう一度お父さんに会いたい、お母さんに会いたい、と、どんなに思われたか知れません。
そして、命、はかなき現実を目の当たりにされた聖人が痛切に思われたのは「今度死ぬのは自分の番だ」ということでした。
死ぬことを「旅立つ」と表現されます。人生の旅を終え、死後はどこへと旅立っていくのか。そもそも、死んだ先はあるのか、ないのか。確実な未来の行く先がまったく分からない。この死後に不安な心を仏教で、「後生(ごしょう)暗い心」といわれます。親鸞聖人は後生暗い心の解決を求めて仏門に入られたのでした。
その思いは9歳のときの歌から知ることができます。
親鸞聖人は、青蓮院(しょうれんいん)という寺で出家得度(しゅっけとくど・一般人が家を捨てて僧侶になること)されました。青蓮院は、比叡山(ひえいざん)で最高の地位である座主にまでなった慈鎮和尚(じちんかしょう)の寺です。「わずか9歳で、出家を志すとは尊いこと。明日、得度の式を挙げよう」と言われた慈鎮和尚に、親鸞聖人は筆を執られて、一首の歌を示されました。
ここに込められたのは次のようなお気持ちでありましょう。
「今を盛りと咲く桜の花も、一陣の嵐で見るも無残に散ってしまいます。
人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。
今日あって明日なき命、今日、得度していただけないでしょうか」
慈鎮和尚は、驚き、言葉を失います。その言葉が真実だったからです。
仏教に諸行無常(しょぎょうむじょう)という言葉があります。諸行とはすべてのもの、無常とは常がなく続かないこと。すべてが無常の中、特にはかなく無常と感じられるのは、人の死です。その死を見つめることを無常観といい、「明日とも知れぬ命」と見つめることが、本当の幸せを求める、宝のような心を起こすと教えられています。
しかし、いつかは死なねばならぬと思いつつ、今日や明日ではなかろうと高をくくっているのが私たちの本心。その誤りをずばり突かれ、さすがの天台座主も、己の迷いに気づかされたのでした。かくしてその日のうちに出家された親鸞聖人。その動機は、「死んだら、どうなるか」一刻も早く明らかになりたいという、せきたてられるような無常観からだったのです。