大悲の願船とは
親鸞聖人は、「人生の目的は、大悲の願船(だいひのがんせん)に乗せていただくこと」と教えています。
大悲の願船という言葉をはじめて目にされたかもしれません。
大悲の願船とは、阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀如来の大慈悲の願いによって造られた船なので、大悲の願船といわれるのです。
本願とは誓願ともいわれ、誓い願われたことですから、お約束という意味になります。
では、阿弥陀如来の本願は、誰のための、どのようなお約束なのでしょうか。順番にお話ししたいと思います。
阿弥陀如来の約束の相手とは
相撲は一人でとれないように、約束にも必ず相手があります。
阿弥陀如来の約束の相手は、すべての人(十方衆生・じっぽうしゅじょう)です。
約束するには、相手がどのような人かを知っていなければなりません。
銀行なら、貸したお金をちゃんと返済できそうな人かどうか調べます。
阿弥陀如来も、すべての人はどのような者か、よくよく調べられました。
その上で、阿弥陀如来はすべての人をどのような人と見てとられたのでしょう。
すべての人は煩悩具足の凡夫
阿弥陀仏は、すべての人を「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と見抜かれました。
「煩悩」とは、欲や怒り、恨み妬みなどの心です。(※詳しくは用語集)
「凡夫」とは人間、「具足」とは塊という意味ですから、「煩悩具足の凡夫」は、煩悩の塊、煩悩100パーセントの人間ということです。
煩悩によって煩(わずら)い悩んでいる私たち。
その苦しみの絶えない人生を親鸞聖人は、荒波の絶えない海に例えて「難度の海」と仰いました。一つの苦難の波を乗り越えても、次の波がやってくる。苦しみの波が絶えることはありません。
これではまるで、苦しむために生まれてきたようなものです。
そんな私たちをごらんになった阿弥陀如来は、”何とか本当の幸せにしてやりたい”と大慈悲心を起こされ、本願を建てられました。
その「阿弥陀如来の本願(お約束)」を、親鸞聖人は、船に例えて、「難度の海を度する大船」とか「大悲の願船」と教えられているのです。
大悲とは大慈悲のこと。
私たちは、この阿弥陀仏の大慈悲によって、欲や怒りの煩悩あるままで、現在ただ今、大船に乗せていただけるのです。
煩悩あるがままで絶対の幸福にする大悲の願船
「煩悩あるがままで、大船に乗せる」とは、どういうことでしょう。
例えば、100トンの石があったとします。
このまま、水に入れたら必ず沈みます。しかし、そんな巨石でも浮かばせる方法はあります。100トンの石を浮かばせる”力”のある船に乗せればいいのです。
そうすれば、100トンの重さは変わらぬままで、水に浮かすことができます。
同様に、すべての人を「煩悩具足」と見抜いて造られた大悲の願船ですから、煩悩具足の私たちを、そのまま乗せて絶対の幸福に救ってくださるのです。
阿弥陀仏は、「欲を減らしてこい」とも「腹立つ心をなくしてこい」とも「妬み・恨みの心をどうにかしてこい」とも仰いません。煩悩しかない者に、煩悩をなくせと、無理を仰る道理がないのです。
この大悲の願船に乗せていただくと、いつ死んでも阿弥陀仏の極楽浄土へ往けることがハッキリします。この「往生一定」の絶対の幸福になるために、私たちは人間に生まれてきたのです。
【まとめ】大悲の願船に乗じる とは? 親鸞聖人が教えられた「なぜ生きる」の答え
- 大悲の願船 = 阿弥陀如来の本願
- 大悲の願船に乗せられると煩悩あるがままで絶対の幸福になり、いつ死んでも阿弥陀仏の極楽浄土へ往けることがハッキリする。そんな幸せになるために私たちは生まれてきた