あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺のできないことである」
(引用:芥川龍之介『侏儒の言葉』)
高校生の時、私はすべてに無気力になっていました。厭世的な文学を好み、そこに書かれた甘美な「死」に憧れていました。
「なぜ死んではいけないのか?」
さまざまな宗教で、死ねば苦しみを受けると死後に「地獄」が定められているのは、ただ架空の恐怖を与えて命を断たせまいとしているようにしか思えず、なぜ死んではいけないのかが分かりませんでした。
葬式で思ったこと
そんなある日、登校中に、近所であった葬式を見ました。
冬の時節、立ち並ぶ花輪やうつむいた参列者の頭に、雪は何の遠慮もなく、他と変わらず分け隔てなく、降り積もっていました。
その美しい光景に、
「悲しんでいるのは人間だけ。人間一人ひとりの人生は実に儚く、大いなる自然の歴史の中にいとも簡単に飲み込まれていく。今までに一体何度こうして生まれては消えていったのだろう」
と、気が遠くなる思いがしました。
学校の国語で習った「無常」という言葉が、頭にふっと浮かびあがりました。
そうして刹那に「いま生きている」と思えるロッククライミングや音楽活動に傾倒したのです。
今思えば、「死」という現実を忘れるためだったのかもしれません。
親戚の自殺
しかし、ごまかしきれないものが眼前に突きつけられました。
年をとったらこんな人になりたいとひそかに慕っていた親戚が首を吊ったのです。彼の誕生日の数日前でした。
葬儀では、美しく死に化粧をされた首の傷跡とともに、もはや私の甘美な自殺願望も消えていきました。
想像上の死のイメージと、身近な人の死は全く異なっており、自分の死をまじめに考えはじめました。
その後、少年の虐待を防ぐため、日夜、働いていた親友の父が40代にして癌で亡くなり、ただ襲ってくる突然の、本当に突然としか言いようのない死におびえるようになりました。
親鸞会との出会い
ある日、親鸞会で先に話を聞いていた高校時代の友人から、親鸞聖人の教えを聞きました。
自殺してはならない大事な人生の目的を知り、とても驚きました。
改めて死の問題は、他人事ではないと気づきました。
これからも続けて聞かせていただきます。