
自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
(出典:『人間失格』)
中学以来、何十回となく読み返した、太宰治の『人間失格』の一節です。
裕福な家庭に生まれ、十分な教育を受けて育ち、何一つ不自由ない少年期を過ごした私でしたが、しかし「ああ、幸福だ」という実感はついに手に入れることができませんでした。
いや、本当に幼かった頃は、たしかに幸福だったかもしれません。しかし物心ついて、社会を、他人を、そして自分を眺めるうち、そんなやわな幸福感は、浜辺の砂文字のように消えていったのです。
自分は幸せになれない。
薄々感づいてはいたものの、はっきりと実感したのは、大学に合格してすぐのことでした。
現実逃避に溺れ、まともに受験勉強をしなかった私でしたが、不思議なことに大学に合格できました。
それまで勉強をしなかったとはいえ、両親の小言が嫌で、好きだったテレビゲームは、ずっとやらずにいました。
目に見えて何か苦しいことがあるわけではないのに、閉塞感に苛まれた受験期。
「合格してゲームでもすれば、この暗い気分も一掃できるだろう」
しかし、この暗い心は、簡単に解決することはできなかったのです。
あれほどやりたかったゲームなのに、どれをやっても面白くありません。
「これじゃない、あれをやりたかったのかも…」と何本も新しく買い求めましたが、私を心から楽しませてくれるもの、空虚な心を埋めてくれるものは何もないことが分かっただけでした。
本当の幸せになりたい。でも、どうすればなれるか分からない。
子供の頃から漠然と抱いてきた問題が、はっきりと表面化した瞬間でした。
そんな私が親鸞会で、親鸞聖人の教えに出会ったのです。
太宰は、『人間失格』にこうも書いています。
この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また『世間』もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。
しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう『わがままもの』なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。
(出典:『人間失格』)
幸せになりたい。心の底からそう願った彼の叫びが、嫌というほど伝わってきます。しかし、その「道」は、彼にも分かりませんでした。
親鸞会と出会い、太宰治も知り得なかった道が、私の目の前に今、開かれています。
本当の親鸞聖人の教えを明らかにしている親鸞会。
この出会いに深く感謝せずにはいられません。