
「人生には目的がある。必ずハッキリするから、話を聞いてみないか」と声をかけられたのが、親鸞会で親鸞聖人の教えを聞き始めるきっかけでした。
私は幼い頃から、いじめや病気、肉親との死別といった不幸とは縁遠く育ちました。
つらかった思い出といえば、受験勉強と虫歯くらいでした。勉強やスポーツも決して得意ではありませんでしたが、コンプレックスを抱くほど苦手というわけでもありませんでした。
そのためか、私の人生観は「なんとかなる」「なるようになる」という言葉で表せるような、どこか薄っぺらなものでした。
人生について漠然と「大変なことやつらいことがあっても、良いこともたくさんあるから、いつの間にかトータルでプラスになるんじゃないかな」と考え、気楽に構えていました。
最初に「人生には目的がある」と聞いても、「どうしても知りたい」とは思いませんでした。
むしろ「人生の目的を知らなくても、その日その日を楽しく過ごせる。人生の目的はあるに越したことはないけれど、知らなくてもいいや」と思っていました。
親鸞会で仏法を聞くようになり、私自身の人生を改めて見つめ直してみると、
「言われてみればその通りだ。仏法で教えられている通りではないか。なぜこのことに気づかなかったのだろう」と思うことが度々ありました。
仏教で教えられていることが真実なのだとしか思えませんでした。
人生の目的などなくても良いと思いつつも、日々を楽しいだけで過ごしていたとして、いざ死を目の前にしたらどう思うのだろうかと自問すると、「こんなことなら人生の目的を真剣に求めるべきだった」と後悔する自分の臨終の姿が目に浮かびます。
これまで「こうなりたい」「こんなことができたらいいのに」「こんなものが手に入ったらいいのに」と思いながら、それらを達成し、手に入れてきた結果が現在の自分です。
そう考えると、未来の自分も今の自分も、ある程度は満たされていて、ある程度は満たされていないという状況は変わらないのではないかと思いました。
それならば、今死んでいく気持ちも、将来死んでいく気持ちも変わらないのではないか、では、今死ねるだろうか。
とても死ぬ気にはなれません。
死が恐ろしいということももちろんですが、何よりも「死ぬ準備ができていない今、死ぬわけにはいかない。きっと一生この思いは変わらないのではないか」と思いました。
そうなると、生きる意味が問題となり、「聞きたいとは思えない」「興味はない」という気持ちであるにもかかわらず、人生の目的を聞かないと大変なことになる、と気になって仕方がなくなりました。親鸞聖人は一体このことをどのように教えられているのだろうと、仏教を聞くようになりました。
死んだらどうなるかということは大変な問題であり、その解決を教えられているのが親鸞聖人の教えです。この大きな問題を解決し、本当の幸福に生かされたいと思います。