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用語集

他力本願とは 分かりやすくて詳しく分かる仏教用語集(動画つき)

マスコミ関係者でも、"他人まかせ主義"を「他力本願」と言っています。
しかし、『広辞苑』にも、『百科事典』にも、本来の意味が記されています。
本当はどのような意味なのでしょう。

他力本願って“他人のふんどしで相撲を取る”と同じこと?

企業の新聞広告に、「他力本願から抜け出そう」という見出しが、大きく掲載されたことがありました。「他力本願」と聞けば、“他人まかせ主義”のことと思う人が多いでしょう。プロ野球の勝敗の報道で、相手の負けによって優勝が決まりそうな時に「他力本願で優勝を狙う」などと書かれることもありますね。

このように、「他力本願」の意味を、“他人のふんどしで相撲を取る”とか、“人の提灯で明かりを取る”ことと同類と考える人が多いのは、「他力本願」の「他力」を、「他人の力」と理解しているからでしょう。力のない人が、力のある「他人」に助けを求める依存心を表す言葉として使われています。

しかし『広辞苑』や『百科事典』にも、そのような「他力本願」の意味は記されていません。もともと仏教用語である「他力本願」とは、どんなことでしょう。「他力」の「他」は何を指すのかを知れば、みるみる誤解は解消します。

「他力」の意味 親鸞聖人が『教行信証』に明言

「他力」の意味について、親鸞聖人の主著『教行信証』に、

「『他力』と言うは、如来の本願力なり」

と書かれています。「如来」とは、「阿弥陀如来(阿弥陀仏)」のことですから、「他力」とは「阿弥陀如来の本願力」のこと。「阿弥陀如来の本願力」を、「他力」とも、「他力本願」ともいわれるのです。
「他力」の「他」は、阿弥陀如来のことに限りますので、「他力」を「他人の力」と思うのは、誤解であることが、まずハッキリします。

「自然の力」を「他力」と誤解すると、どうなる?

また、「初日の出」や「西に沈む美しい夕日」を見て「お他力さま」と手を合わせたり、自然の恵みに感謝して「他力のおかげ」と言ったりするのを時々耳にしますが、これも、正しい「他力」の意味ではないということです。

自然の恵みに感謝するのは大切なことですが、太陽や、その他の自然現象すべてを「他力」としますと、阿弥陀如来が、時には、干ばつで人を苦しませたり、台風や洪水で命をおびやかしたり、地震や津波で命を奪ったりすることになってしまいます。それは、“苦しんでいる人たちを何としても助けたい”という心しかない、大慈悲の仏といわれる阿弥陀如来に対する、とんでもない濡れ衣になってしまいます。“自然の力”は、あくまでも“自然の力”であって、それ以外の、なにものでもありません。

「たくましき親鸞」といわれる理由と「他力」の真意

では、「他力(阿弥陀如来の本願力)」とは、どんな力かといいますと、親鸞聖人は、「果てしない過去から、私たちを苦しめてきた心の闇(苦悩の根元)を打ち破って、絶対の幸福(変わらない安心満足)にする力」と教えられています。

生きることが苦しくてしょうがない。消えてしまいたいほど、生きづらい人生になるのは、なぜなのか。“こんな家に生まれたから” “こんな人と結婚したから” “こんな子供がいるから”“お金が足りないから” “みんなにバカにされているから” “病院通いの日々だから” “コミュニケーション能力が足りなくて人間関係が苦手だから” “居場所がないから” 等々、いろいろな原因が浮かびます。それらは言わば、苦しみの“枝葉”であって、苦しみの“根元”ではありません。
苦しみ悩みの大元を、仏教では「心の闇」であると説かれています。人生の根本苦である、その心の闇が「他力」によって破られた時、明るく楽しい、大安心大満足の絶対の幸福になるのです。

「他力」の本当の意味が分かれば、その「他力」によって絶対の幸福になられた親鸞聖人が、どんな理不尽な非難にも屈せず、波瀾万丈の生涯を突き進まれ、「たくましき親鸞」と讃えられた強さも、なるほどなぁ…と納得がいくことでしょう。

【まとめ】他力本願とは

  • 「他力」の「他」は、他人のことではない
  • 「他力」とは、自然の力でもない
  • 「他力」の「他」は、阿弥陀如来に限る
  • 「他力」とは、苦悩の根元・心の闇を破る力
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