死んだら墓に入ると思っている人は○%~死んだらどうなる?
皆さんは、お墓についての悩みをお持ちでしょうか?お墓についての興味深いアンケート結果を見ながら、「死んだらどうなる?」について仏教の視点からまとめてみました。
皆さんは、お墓についての悩みをお持ちでしょうか?
『朝日新聞』(2017年11月15日)の「Reライフ人生充実with読者会議」に、お墓についての興味深いアンケート結果(回答者=421人)が載っていました。その結果を参照しながら、「お墓」の問題について、仏教の視点からまとめてみました。
目次
- お墓をめぐる悩みあれこれ
- 最も多い悩みは墓の「維持・管理」
- 配偶者と同じお墓に入るのは……
- 何がお墓に入るのか?死んだら私はどうなる?
- 生きている今、心の葬式を済ませましょう
- まとめ
1.お墓をめぐる悩みあれこれ
『朝日新聞』のReライフプロジェクトが行った今回のアンケートによると、「墓についての悩みがあるか」という質問には、71%の方が「ある」と答えています。
○墓についての悩み
「ある」……71%
「ない」……29%
「ある」と回答した人を男女別でみると、
- 女性……77%
- 男性……60%
となっています。女性に限ると、8割近くの方が、お墓に対する悩みを抱えていることが分かりました。
2.最も多い悩みは墓の「維持・管理」
次に、悩みの種類で最も多いのは「維持・管理について」。
- お墓が遠隔地にある
- 将来、墓守をする人がいない
など。
こうした悩みの解決策として出てきたのが、最近よく耳にする「墓じまい」でしょう。
自分が死んだら誰も先祖の墓を管理する人がいないので、故郷にある墓を撤去し、遺骨を永代供養の合葬墓などに移すことを「墓じまい」といわれます。
お墓を撤去するというと、遺骨を取り出して墓を解体し、更地に戻すだけのように聞こえますが、そこに至るまでの過程が、そう簡単ではありません。例えばある寺院の墓の場合、200万もの高額な金額を要求されたり、古い墓の管理者からの「改葬許可申請書」、遺骨を移す先の霊園の「受入証明書」などを用意し、自治体への手続きなどが必要になります。こうした金銭面の負担や、手続きの面倒さに加え、親族が先祖の墓をなくすことに反対し、責められるなど、精神的苦痛を味わうことも多いようです。確かに切実な問題です。
3.配偶者と同じお墓に入るのは……
今度は自分が死んだ場合の話。『朝日新聞』の紙面で最も目を引いたのは「配偶者と同じお墓に入りますか?」という質問です。とりあえず、その回答結果から。
当然だ……39%
悩む……11%
仕方がない……9%
できれば避けたい……6%
絶対に嫌だ……4%
また「自分の遺骨をどうしたいか」という質問には、散骨や樹木葬を挙げた人が4割近くあったそうです。「自然に帰りたい」「子供たちに墓守の負担をかけたくない」など、その理由や動機も一通りではないようです。
配偶者と同じ墓に入りたい人は約4割とのことですが、あくまでこれは「遺骨」をどうするか、という話ですよね。その割に、回答の項目が「好き嫌いの尺度をはかる感じ」なのは、気のせいでしょうか。なんとなく、死んだら魂が遺骨と一緒に墓に宿るという思いが込められているように感じますが、いかがでしょう。
4.何がお墓に入るのか?死んだら私はどうなる?
考えてみれば「お墓」の問題は、「死んだら私はどうなるのか」という問題と切り離せません。
盆や彼岸に毎年、遠くから墓前までやってきて線香を供えるのは、墓へ行けば懐かしい人に会えると思うからでしょう。大切な人がそこにいないのなら、わざわざやってくる意味もなくなります。このような「墓や遺骨に死者の魂が宿っている」という日本人に一般的な考えは、神道や儒教や道教などが入り交じって形づくられたものといわれます。もちろん亡くなった肉親をしのび、懐かしむ心情は、人として当然ですが、果たして「遺骨=肉親」なのでしょうか。私たちは死んだ後、本当に墓の下に入るのでしょうか。
ここでは、浄土真宗の親鸞聖人の教えを紹介しましょう。
死んだら川に捨てて魚に与えよ!?
親鸞聖人は「私が死ねば、屍を賀茂川に捨てて、魚に食べさせよ」と衝撃的なことを仰っています。川へ捨てれば骨も残りませんから、墓や遺骨を全く問題にされていないことが分かります。一体、この発言は私たちに何を教えようとされたのでしょうか。
そもそも、私とは何か?
そもそも「私」とは何でしょうか。
「これが私」と指さしているのは私の「体」です。私たちの家や車、時計や指輪などは私たちの「持ち物」であるように、自分の肉体もやはり自分の所有物であって、私そのものではないと仏教では教えられます。もちろん骨も、その人の持ち物であって、その人自身ではありません。
ですから、いかに慣習とはいえ、骨に特別な意味を持たせ、遺骨の扱い方で死者の幸福が左右されるように信じて供養するのは、もともと仏教にはなかった考え方です。
死んだら無になるの?
だからといって仏教は「脳が私だから、死んで脳が消滅すれば無になる」という唯物論でもありません。
世界的に著名な脳外科医ペンフィールドは、「唯物論」の立場で脳の研究に生涯をささげた末、脳と私とは別だと考えるほうが合理的だという結論に達しました。ペンフィールドは、古くなった車を乗り換えるように、「私」は数え切れないほどの脳を乗り換えてきたのだろうと推測していますが、仏教では、私たちの肉体は80年か100年の借り物であって、「本当の私」は、肉体が滅びたあとも永遠に続くと説かれています。
日頃は「死んだら無になる」と言っている人も、肉親や友人の告別式になると「冥福を祈ります」「ご霊前で申し上げます」と言います。死んで何もなくなら「冥土の幸福(冥福)」も「霊の前(霊前)」もないはずですが、単なる周囲への配慮だけではない、何か神妙なものがそこにはあります。理屈では死後の世界を否定しながら、本心は死後の実存を否定し切れないからでしょう。
来世は明るい世界への旅でありたい
では「私」は死ねばどうなるか。無にならないなら、どこへ旅立つのでしょうか。闇黒の世界より、明るい世界への旅でありたいのが、すべての人の願いでしょう。
親鸞聖人は、御臨末(臨終)に、
と明言されています。しかもそのあとで、
と言われています。
極楽浄土で、のんびりなんかしていられない。この世に苦しみ悩む人がいる限り、寄り添って救わずにいられないのだ、との熱いお気持ちです。墓の下に眠るどころの話ではありませんね。
5.生きている今、心の葬式を済ませましょう
さて、親鸞聖人が「私が死ねば、屍を賀茂川に捨てて、魚に食べさせよ」と言われた理由は、「散骨」や「樹木葬」のように、死んだら墓に入るという常識にとらわれなかったからではありません。また千の風になって見守っているから墓にはいません、ということでもありません。
親鸞聖人の「死ねば川に捨てて魚に食べさせよ」のお言葉は、「肉体の葬式や墓よりも、もっと大事なことがある」という強烈なメッセージです。
「肉体の葬式や墓よりも、もっと大事なこと」とは何かといえば、「心の葬式」です。
生きている今、はやく「心の葬式」を済ませよ、ということ一つ教えられたのが親鸞聖人でした。
では「心の葬式」とはどんなことか。続きは、こちらの仏教講座で、ぜひお聞きください。
6.まとめ
- お墓の悩みを持っている人は約7割。
- 悩みの種類で目立つのは「維持・管理」について。
- そのため「墓じまい」や、自分は墓に入りたくないと考える人も増えています。
- 一方、お墓の問題は、人は「死んだらどうなる」という問題と切り離せません。
- 親鸞聖人は「私が死んだら、川に捨てて、魚に食べさせよ」と言われています。
- それは、肉体の葬式や墓より「心の葬式」がもっと大事というメッセージでした。