死別の悲しみを乗り越えた男性の体験「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」のお言葉が身にしみて
茨城県の坂上賢治さん(65)は昨年、48年連れ添った妻を突然、亡くしました。
その苦しみは、血尿が出たほどと言います。今では笑顔を取り戻した坂上さん、それほどの悲しみを、どう乗り越えたのでしょうか。坂上さんに、語ってもらいました。
「人を助ける仕事がしたい」の思いから、40年近く、消防職員として働いてきました。救急隊長やレスキュー隊長の経験もあります。
妻も永年、看護師として医療に従事し、面倒見がよく、後輩からも慕われる女性でした。
勤務地の関係で、11年ほど別居生活が続いていましたが、妻は、
「離れ離れだったから、これからは、あなたに尽くすから」
と言って、63歳で師長の職を辞したのです。
それからというもの、始発電車に乗らねばならない私を、毎朝、隣駅まで車で送ってくれ、帰りも改札口で出迎えてくれました。
いつもと変わらぬ朝だった……
そんな生活が5年ほど続いた昨年1月6日の朝、いつものように送ってくれたものの、妻の具合が少し悪そうだったので、
「迎えに来なくていいよ」
とメールを入れて、帰りの電車の時間は連絡しませんでした。
それなのに、妻は、ちゃんと改札口で待っていて、
「私の体を気遣って、帰りの時間のメール、入れないんだなと思ってきたんだよ」
と笑顔で迎えてくれました。
夜7時頃、夕食を食べながら、
「今年はどこにも行けなかったね。正月なのに」
「しょうがないよ、コロナなんだから」
「こういう静かな正月、過ごすのも幸せなんじゃないの」
などと、語り合ううち、妻に電話が入りました。相手は妻の友人で、大声ではしゃぎながら、妻はひとしきり、それは楽しそうに話していました。
電話を切ったあと、テレビを見ながら、また2人で語らっていると、妻が急に胸を押さえて苦しみだしたのです。
「どうしたんだよ。大丈夫か?」
「あ、ダメ、ダメ……!」
体をさすったけれども、顔色がみるみるうちに、紫色になっていく。
「あなた、ごめんなさい……」
の一言を最後に、妻は目前で意識を失ってしまったのです。必死に心肺蘇生を施しましたが、それきり息を吹き返すことはありませんでした。
救急搬送された病院で、医師から、「ご臨終です」と告げられても、
「ウソだろ、朝、見送ってくれて、夕方もあんなに仲良く話していたのに……」
と信じられない気持ちでした。
死因は、大動脈解離。68歳でした。
葬儀が終わっても、しばらくは、何も手につきません。
家にある遺品を見るたび、ついこの間までここにいた妻を思い出し、悲しみが込み上げてきます。撮りためていた妻の動画を見ても、つらくて途中で見られなくなりました。
見るもの、聞くもの、全てが苦しみの元でした。
「いちばん大事な人を救えなかった……」
と、無力感にさいなまれ、周囲からは「大変だったねえ、またいいこともあるよ」と慰めの言葉を掛けられましたが、心が晴れることはありませんでした。
ほんの一週間ほど前、年末には、
「来年は、一緒に旅行を楽しもうね」
と言って、いろいろと計画を建てていたのに、全部なくなってしまいました。
食欲も出ず、すっかりやつれたある日、便器が真っ赤に染まりました。血尿が出たのです。医者に診てもらうと、
「がんではありません。それなのに、血尿が出るとは、相当のことがあったのですね……?」
と言われ、事情を打ち明けると、
「それじゃあ、しかたないですね」
とポツリ、告げられただけでした。
体重は、4カ月で、20キロも減ってしまいました。
無気力になり、
「これじゃいけない、これじゃいけない」
と自分に言い聞かせようとしても、「何もしてやれなかった」という罪悪感と、「もっとこうしてやればよかった」という後悔が襲ってきて、つらくてなりません。
子供はなく、夫婦二人きりの生活でしたから、
「本当に1人になっちゃった……」
と、むなしさと寂しさも時折、ものすごい勢いで襲ってきて、心を覆い尽くしました。
『白骨の御文章』が飛び込んできた
ある日、心のよりどころを探して、自宅のパソコンでインターネットのページを眺めていると、
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
の一文が目に飛び込んできました。それは、蓮如上人の『白骨の御文章』でした。
「朝、笑顔で見送ってくれて、夜には亡くなってしまった妻と同じじゃないか……!」
一体、どんなことが書かれているのだろうと、知りたくなって、そのままそのページを読み進めていくと、まず、蓮如上人が『白骨の御文章』を書かれたいきさつが、次のように書かれていました。
当時、山科本願寺(やましなほんがんじ)の近くに、青木民部(あおきみんぶ)という下級武士がいました。
17歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は喜んで、先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具をそろえます。ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまったのです。
火葬の後、白骨を納めて帰った民部は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲しみに暮れ、51歳で急逝。たび重なる無常に、民部の妻も翌日、37歳で愁い死にしてしまいました。
その2日後、山科本願寺の土地を布施した海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の17歳になる娘もまた、急病で亡くなったのです。
葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に無常についてのご勧化をお願いしました。すでに青木家の悲劇を聞かれていた蓮如上人は、その願いを聞き入れ、書かれたのが「白骨の章」であると伝えられています。
そのあとには、『白骨の御文章』の全文が掲載されていました。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。
されば未だ万歳の人身(まんざいのじんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬれば、すなわち二の眼(ふたつのまなこ)たちまちに閉じ、一(ひとつ)の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装(とうりのよそおい)を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ あなかしこ。(『御文章』5帖目16通)
500年も前に、これから嫁ごうとしている結婚式の日に急逝した娘さんがあったとは……。
そして、『白骨の御文章』を読み進むうち、世の無常が、ほんとだなあ、ほんとだなあと胸に迫ってきました。
「朝は元気な顔をしていても、夕べには白骨となるのが私たち。ひとたび無常の風に吹かれたならば、二つの眼は、たちまちに閉じ、永遠に息をすることはない。血色のよかった顔は変わり果て、桃や李のように美しかった容姿は、すっかり色あせてしまうのだ」
とたたみかけてくるお言葉に、
「ああ、私の体験と全く同じだ……。科学が発達した現代でも、人間の姿は変わらないのだなあ」
と思わずにおれませんでした。
読めば読むほど、この教えをもっと知りたい、学びたいとの思いに駆られ、すぐにオンラインでのお話を申し込んだのです。
つらい思いが感謝に変わった
週に1度、1時間の授業が始まりました。
画面越しに向き合った講師に、苦しい胸中を打ち明けると、
「そうでしたか、大変でしたね、お気持ちお察しします」
と、その講師は、ひたすら耳を傾け、私の気持ちを酌んでくれました。それだけで、どれだけ心が楽になったか、知れません。
その後も周囲に無常の嵐が吹き荒れて、1年のうちに肉親や親族、計6人を亡くしました。悲しみはあふれるばかりでしたが、講師は、そのたびに親身になって接してくれ、
「親鸞聖人は、苦海の人生に溺れる私たちを乗せて救ってくださる、弥陀の大きな船があると教えられているのですよ」
と、丁寧に話してくださいました。
そうして半年が過ぎた頃、
「もしかしたら、家内が体を張って、早く仏法聞きなさいよ。あなたは、もっと大きな幸せを獲るんでしょ、と後押ししてくれたのかな」
と感じるようになり、いつのまにか、悲しみが薄らいでいる自分に気づいたのです。
今では、私に本当の幸せを知らせるために、一切が総掛かりだったんだなあと思わずにおれなくなり、悲しい、苦しい、つらいの3つが、全て感謝に変わりました。
坂上さんは言われます。「会者定離、会うは別れの始めと言われますが、もし、私と同じように大事な人を亡くされて、悲しみに沈んでおられる方があれば、ぜひ仏法を聞いてみてください。きっとそのつらい思いが感謝に変わる日がくるはずですから」と。
関心を持たれた方は、ぜひ以下の小冊子『死別の悲しみを乗り越える7つの方法』(ネット上で読めるPDF形式)を読んでみてください。
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