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浄土真宗

お彼岸とは~暑さ寒さも彼岸まで【保存版】お彼岸と墓参りの本当の意味

仏教の伝統行事、お彼岸とは、そもそも何なのでしょう。
お彼岸の意味と、墓参りの意味についてお話しします。

暑さ寒さも彼岸まで~なぜお彼岸は、春の彼岸と秋の彼岸があるの?

   
暑さ寒さも彼岸まで」という言葉を耳にしますが、どのような意味か、ご存じでしょうか。
辞典には、こう書かれてあります。

暑さ寒さも彼岸まで(別表記:暑さ寒さも彼岸迄・あつささむさもひがんまで)
夏の暑さは秋の彼岸のころには和らぎ、冬の寒さは春の彼岸のころには和らぐ、などの意味の慣用句。

実用日本語表現辞典

 

彼岸になると暑さも寒さも和らぐということから、どんな困難な事態でも、あるときを過ぎると、峠を越えるということ。また、それまであきらめずに耐えれば、解決するということ。

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このように、お彼岸には、春の彼岸と、秋の彼岸があります。
春のお彼岸は「春分の日」で、秋のお彼岸は「秋分の日」です。
お彼岸の期間は、「春分の日」「秋分の日」を中日として前後3日間、計7日間となります。

「ぼたもち」と「おはぎ」の違いって?

ちなみに、お彼岸には、あんこのお餅を食べますが、春と秋では呼び名が違います。
春は「ぼたもち」、秋は「おはぎ」です。

これは、春は「牡丹(ぼたん)」の花、秋は「(はぎ)」の花にちなんでいるのです。季節感あふれるネーミングが素敵ですね。

では、なぜお彼岸が年2回あるのでしょう。

お彼岸が年2回ある理由

答えを知るには、まず「彼岸」の意味を知らねばなりません。
「彼岸」とは仏教の言葉です。
仏教で、「彼岸」とは「極楽浄土」のことを指します。

極楽浄土のことを、お釈迦様が、詳しく説かれている『阿弥陀経』には、

「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う」

とあり、極楽浄土は、ここからはるか西の彼方にあると説かれているのです。
ですから極楽浄土を西方浄土ともいうのですね。

さて、春分の日と秋分の日といえば、太陽が真西に沈む日でもあります。

「西」でつながりましたね。

つまり、西に沈む太陽を見ながら、極楽浄土に思いをはせるようになり、その日を「お彼岸」と呼ぶようになった。
太陽が真西に沈む日が春分の日と秋分の日と2回ありますから、年に2回「お彼岸」があるのです。

彼岸(かの岸)ってどんなところ?

太陽が西に沈むように、すべての人の行き着くところが「彼岸(極楽浄土)」

 
では、なぜ極楽浄土は西にあると、お釈迦様は説かれたのでしょうか。
 
西の地平は、太陽、月、星、はたまた人工衛星まで、天空の全てが、最後に沈んでいく方角です。最後行きつく象徴が「西」。

ちょうどそのように、すべての人が、最後、そこにたどり着かねば、落ち着かない、本当の幸せの世界が極楽浄土なのです。
私たちは「幸せだなぁ」と感じることがあっても、悲しいことに続きません。
これは本当の幸せではなかったと、次なる幸せを求めていきます。
次はこれ、その次はあれ、と通過点ばかりで、真の安心も満足も得ることがなく、次から次へと進み、心は落ち着きません。

最後、本当の幸せになってこそ、「この幸せの身になるための人生だったのか」と、心からの安心、満足を得られるのです。
 
そんな、すべての人の求める本当の幸福を教えたのが仏教ですから、聖徳太子は、有名な『十七条憲法』に仏教を「四生の終帰(ししょうのしゅうき)」と言われています。
四生」とは、生きとし生けるものすべてのこと。「終帰」とは、最後に帰するところということで、生きとし生けるものが救われる、最後のよりどころ、という意味です。

晴天の日に飛行機から山岳地帯を見下ろすと、キラキラと輝く鏡の破片のようなものが散らばって見えることがあります。ここかしこに点在する、名もない湖や沼です。

山に降った雨水が、谷を下って、それらの湖や沼などに貯まるのです。一時、そこにとどまりますが、やがてあふれて流れ下り、次の池へと流れ込みます。

しかし、そこでも落ち着かず、またあふれ流れて、次の湖へ……。
そんなことを繰り返し、最後、海に入って初めて落ち着きます。海は、あらゆる川が行き着く所(終帰)です。

私たち人間でいえば、湖や沼が一時の楽しみ、幸せ、趣味、生きがいにあたります。
そこでしばらくとどまりますが、やはり心からは満足できず、もっと素晴らしい幸せを求めて流れていくのです。
最後、心から安心・満足できる終帰が極楽浄土・彼岸ですから、極楽浄土・彼岸は西にあると教えられるのです。

彼岸(かの岸)に対して 此岸(この岸)がある

「彼岸」とは、「彼の岸(かのきし)」ということで、極楽浄土のことだとお話ししました。

この「彼岸」に対して、「此岸(しがん)」という言葉があります。

此岸とは、こちらの岸ということで、私たちが今、生きている世界のことです。
この世界を仏教で「娑婆(しゃば)」ともいわれます。「娑婆」、聞かれたことがありますでしょうか。

なぜ、私たちの世界を「娑婆」といわれるのでしょう。
実は「娑婆」は昔のインドの言葉(サンスクリット語)の「サバー」を漢字で当てはめたものなのです。
「サバー」は、中国で「堪忍土(かんにんど)」と訳されました。
「土」とは「世界」という意味で、この世は「堪え忍ばねばならない、苦しみの世界」ということなのです。
 
生きることは大変です。生きるために必死になって働き、老いや病魔とも闘わねばなりません。人間関係のストレスに絶えずさらされ、交通事故や豪雨など、不測の事態も襲ってきます。

親鸞聖人は、

生死(しょうじ)の苦海、ほとりなし

と言われました。
生きているものにとって死ぬほど辛いことはありませんから、「生死(しょうじ)」とは、苦しみのことです。
この世はまるで苦しみの海のようで、しかもこの海には果てがない、と仰っています。

一つの問題が解決したら別の問題が出てくる、やっと幸せになれたと思ってもつかの間で新たな問題が起きてくる。
心から安心することも、満足することもできない世の中が「此岸」、娑婆です。

そんな此岸から逃れて、どこかに、本当の幸せの世界(彼岸)がないかと、探し求めているのが、私たちではないでしょうか。

先ほどの例えでいうならば、私たちも、山に降った雨水のようなもの。
「この夢が叶ったら幸せになれるはず」
「今度こそ幸せになろう」
と、涙ぐましい苦労を重ねながら流れ下り、そこかしこの湖やら沼やら水たまりに入って、一度は落ち着こうとしますが、本当の安らぎはなく、やがて、次の幸福の池を求めて流れ出ます。そうやって流れ流れて、最後、「本当の幸福」という「海」に入って初めて
ここに求め続けてきた本当の幸せがあった!
と、心からの安らぎと満足を得ることができるようなものです。

幸せ求めての旅に疲れ、
「どこにも本当の幸せなんてない」
「結局、妥協して生きていくしかないよ」
とアキラメている私たちに、
「仏法に本当の幸せが教えられているのですよ。仏教を聞けば必ず本当の幸せになれるから、仏法を聞きましょう」
と、究極の幸せをハッキリと教えられたのがお釈迦様であり、親鸞聖人です。

ですから本来、お彼岸は、仏法を聞かせていただく日なのです。

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