読む・知る

浄土真宗

浄土真宗に西と東があるのは なぜ?【浄土真宗の教え】

なぜ、浄土真宗は西と東に分かれているのか、疑問に思う人は多いでしょう。この理由を明らかにするには、石山戦争(1570-1580)にまでさかのぼらなければなりません。

浄土真宗が西と東に分かれている経緯についてお話しいたします。

浄土真宗が西と東に分かれている理由

なぜ、浄土真宗は西と東に分かれているのか、疑問に思う人は多いでしょう。この理由を明らかにするには、石山戦争(1570-1580)にまでさかのぼらなければなりません。
石山戦争とは、明日に一城、夕に一国と領土を拡げ、五畿内の猛将を馬前の塵に蹴ったあの織田信長と、石山本願寺(今の大阪城のある所)との戦いです。
たかが浪人や農民、町民らの集まりと、たかをくくっていた信長も、「進めば極楽、退けば地獄」と大書したムシロ旗をかかげ、一死報恩の覚悟で戦った石山本願寺の僧侶や門徒たちと、実に、10年以上の持久戦を続けざるをえなかったのですから、誰しも驚かざるをえません。

抗戦か和睦か、意見が分かれたのが東西本願寺分裂の原因

江戸時代の歴史家・頼山陽も、「豈はからんや 右府(信長)千軍の力 抜き難し 南無六字の城」と驚嘆しているほどです。信長が天下統一のチャンスを失ったのは、実にこの石山戦争のためであったといえるでしょう。
最後は、正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めてきたのですが、その時、開城するか、抗戦するかで、本願寺内の議論が真っ二つに分かれました。これが東・西本願寺分裂の遠因となったのです。

時の11代目宗主、顕如上人と三男の准如とは、和解の勧めに従おうとしましたが、長男の教如は、徹底抗戦を主張して譲らず、両派は厳しく対立することになります。
一朝の思いつきで、叡岳三千坊を焼き払い、美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだり、和解したにもかかわらず、だまし打ちで大量殺戮を行った長島一揆など、長男・教如は、信長のやり方がどんなものかを熟知していたのです。
和戦か抗戦かの議論は、結局もの別れとなり、顕如上人は、自分に従わない教如を義絶して石山を退去し、親鸞聖人のご真影と共に和歌山の鷺森別院へと移ることにしました。ところが教如の予測どおり信長は、その後、雑賀騒動を機として、浄土真宗殲滅を謀っていたのです。
天正10年6月、備中の秀吉の加勢に向かった明智光秀の大軍が、大江山にさしかかるや、馬首一転して「敵は本能寺にあり」と信長を討ちました。この本能寺の変があったがために、本願寺は難を逃れることができたわけです。
三日天下の明智光秀は、浄土真宗にとっては恩人といわねばなりません。

徳川家康による分割

後日、本能寺の変を知った顕如上人は、教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、三男の准如へ本願寺12代の職を譲ることになりました。
これが今日の西本願寺となったのです。
その後、戦乱が治まると、利口な秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしで一生終わりましたが、徳川家康は、巨大な本願寺勢力の分割を謀り、不満鬱積していた教如に目をつけ、寺地を寄進して東本願寺を別立させることに、まんまと成功したのです。

東・西本願寺の冷戦

かくして、これより浄土真宗の勢力は真っ二つに分断され、東・西本願寺は冷戦を続けるようになりました。
西本願寺が御影堂を南に置けば、東本願寺は北に建てる。片方が『御文章』といえば、一方は『お文さま』という。一方が「領解文」といえば、片方は「改悔文」とする。西が報恩講を正月に勤めると、東は11月に変える。その他、僧侶の位階、学階、仏前の荘厳、『正信偈』の読みぐせまで変えて、反目し合ったまま、今日に至っているのです。
本来、親鸞聖人の教えに西も東もありません。
私たちも、親鸞聖人の教えを聞かせていただきましょう。

【まとめ】浄土真宗に西と東があるのは なぜ?

  • 石山戦争がきっかけ
  • 和睦派、11代目宗主、顕如上人と三男の准如が西本願寺、抗戦派の長男の教如が東本願寺となる
  • 本来、親鸞聖人の教えに西も東もない

お勧め記事

全て

講座のご案内

浄土真宗親鸞会では、全国各地で浄土真宗・親鸞聖人の教えが分かる法話や講座を開いています。また、インターネットを利用したオンライン講座もあります。