浄土真宗・中興の祖 蓮如上人
室町時代から今日まで、浄土真宗が日本最大の仏教教団たりえたのは、その多くが蓮如上人の功績によります。
親鸞聖人から大体200年ほどあとに出られた方ですが、この蓮如上人ほど親鸞聖人の教えを正確に、そして日本全国津々浦々へ広められた方はありません。ですから浄土真宗では、親鸞聖人を開山聖人、蓮如上人を中興上人と仰ぎ、お仏壇に向かって右側に親鸞聖人の御影を、左側には蓮如上人の御影をお掛けします。
もし蓮如上人がおられなければ、恐らく今日の私たちは、親鸞聖人の教えに出遇うことはなかったかもしれません。
なぜならば、蓮如上人が法主になられるまでの真宗は、衰微の極みにあったからです。『本福寺由来記』によれば、京都大谷にあった当時の本願寺は、「人跡たえて、参詣の人一人もみえさせたまわず。さびさびと……」とあります。三間四面の小さな御堂に、閑古鳥が鳴く有り様でした。
それが蓮如上人43歳の御年(長禄元年・1457)、法主の座を継がれるや、たちまち目覚ましいご布教が始まったのです。
そのあまりの勢いに比叡山の僧侶は恐れをなし、執拗に本願寺を襲撃するようになりました。やむなく上人は、比叡山の手が届かぬ越前(福井県)の吉崎へ拠点を移され(文明3年・1471)、この吉崎御坊からさらなる大躍進が始まったのです。
わずか数年で、北陸の大半が本願寺門徒となり、一向一揆と呼ばれる大名との武力衝突まで起きるようになりました。
しかし蓮如上人は、そのような戦乱を避け、京都山科に布教・聞法の拠点を移されます。やがてそこに「仏国の如し」と讃えられる仏法都市、山科御坊が建立されました(文明12年・1480)。その時で門徒の数は「幾百千万人」ともいわれています。
その後、仏光寺派など真宗他派も続々と帰参し、親鸞聖人の正しいみ教えは全国津々浦々へと広まりました。
なぜ、蓮如上人一代で、これほど浄土真宗は広まったのか
ではなぜ、蓮如上人一代で、これほど浄土真宗は広まったのでしょうか。
その鍵は、蓮如上人の書かれたお手紙である『御文章(ごぶんしょう)』にあります。蓮如上人の教えは、80通の『御文章』に余すところがありませんが、長短あっても親鸞聖人のみ教え以外、記されていません。その幾つかを拾ってみると、
「聖人一流の御勧化の趣は」(5帖目10通)
「それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の一義の意というは」(2帖目10通)
「抑、親鸞聖人の一流に於ては、平生業成の儀にして」(1帖目4通)
挙げれば切りがありません。80余年のご生涯、蓮如上人の布教姿勢は一貫して変わらなかったのです。
それは「更に蓮如、珍らしき法をも弘めず、親鸞聖人の教えを、われも信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」の実践でした。
この「御文章」が、寺や道場など多くの人が集う中で朗々と代読され、それは門徒から門徒へ競って書き写され、1通の「御文章」が数十、数百と膨れ上がり、山を越え、谷を渡って全国へと拡大していったのです。
平易で簡潔に、親鸞聖人のみ教えを示された『御文章』は確実な上人の分身となって、全国津々浦々に普及され、たくさんの人たちが聖人の教えによって絶対の幸福の身に救われ、浄土真宗は大隆盛したのです。
【まとめ】浄土真宗・中興の祖 蓮如上人について
- 蓮如上人ほど親鸞聖人の教えを正確に伝えられた方はありません
- 平易で簡潔に親鸞聖人のみ教えを示された『御文章』が、全国津々浦々に普及され、浄土真宗は広まりました