不可解な『歎異抄』の言葉「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」真意は、想像を絶していた
「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
有名な『歎異抄』の1文です。あなたも、高校の歴史の教科書などで目にしたことがあるのではないでしょうか。
よく知られているのに、その意味を知る人は、驚くほど少ないようです。石川県中能登町に住む高柳輝親さん(81)も、10数年来、このお言葉に首をかしげていました。真意が分かって喜びの人生が開けるまでを語ってもらいました。
最も有名な古典『歎異抄』の謎
「日本の古典で有名な言葉は?」と聞かれたら、あなたは、どんな文章を思い浮かべますか。
『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」ですか。
それとも、
『方丈記』の「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」でしょうか。
「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
も、非常によく知られている1文です。
これは、『歎異抄』3章の冒頭ですが、高校の歴史の教科書などで見て、
「えーっ?善人よりも悪人が助かるって、どういうこと!?」
と思った記憶はありませんか。
『歎異抄』は、700年ほど前、親鸞聖人の高弟・唯円によって書かれたものといわれています。三大古文として有名な『歎異抄』。そこに、道徳に反することが記されているとは思えません。この言葉は、とても謎めいてみえます。
知識人が絶賛する『歎異抄』
『歎異抄』は、さまざまな知識人が称賛している古典です。
「無人島に1冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ(*1)」(作家・司馬遼太郎)
「いっさいの書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる(*2)」(哲学者・西田幾多郎)
「万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる(*3)」(哲学者・三木清)
「歎異鈔よりも求心的な書物は恐らく世界にあるまい。(中略)文章も日本文として実に名文だ。国宝と云っていい(*4)」(作家・倉田百三)
*1 『週刊朝日』平成8年11月1日号
*2,3 谷川理宣・土井順一・林智康・林信康編著『歎異抄事典』
*4 倉田百三著『一枚起請文・歎異鈔 法然と親鸞の信仰』
などなど。このような知識人が称賛していると知ればなおさら、その『歎異抄』に
悪をするほど助かる、といった、反社会的なことが書かれているとは思えないでしょう。
もろ刃の剣『歎異抄』
『歎異抄』は実は、500年前、浄土真宗の中興、蓮如上人が、親鸞聖人を誤解させるおそれがあると、「仏縁の浅い人には披見させてはならぬ」と封印された書物なのです。それが、明治の末からある機縁で急速に普及したのですが、古来、「カミソリ聖教」と呼ばれる、危険な書物でもあります。
カミソリは、大人が使えば重宝ですが、子供が使うとケガをします。
同様に、『歎異抄』は、浄土真宗の教義をよく知らぬ人が読むと、教えを誤解して、臍を噛むことになってしまうのです。
その最たるものが、
「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
の言葉でしょう。
10数年来の『歎異抄』の謎、解けた!
では、「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は、どんな意味なのか。この言葉に疑問を抱き続け、10数年後、やっと真意が分かったと喜んでいる石川県中能登町の高柳輝親さん(81)に、その経緯を語ってもらいました。
私は、土徳の地といわれる能登(石川県北部)で、機織り業を営む熱心な真宗門徒に生を受けました。朝夕の勤行は家族の日課でした。
やがて、機織り業を継いだ私は、色糸を組み合わせてストライプやチェック柄を織る技術を習得しました。白生地が主流だった当時、それは高く評価され、化学企業の大手・東レの指定工場となり、仕事は順調でした。
一方、運動が好きで、休日には、ゴルフをよくやりました。ところが、股関節に異常を来し、平成7年1月、入院を余儀なくされたのです。
手術後、人工関節がずれぬよう、ベッドにくくりつけられていた、その月の17日、阪神淡路大震災が起きました。現地の病院でも死者が続出というニュースに、「もし震源が能登だったら……」と思った時、急に後生が心配になってきたのです。
それまで、年に3回ほどは手次の寺の行事に参加していましたが、いつも世間話ばかりで教えが聞けなかったので、本で浄土真宗を学ぼうと、10冊ほど読み、『歎異抄』も手に取りました。中でも、第3章の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」に、「善人が助かるのは分かる。だが、悪人はなおさら救われる……?」と、心が引っかかったのです。
「さらばなり 有為の奥山 今日こえて 弥陀のみもとに ゆくぞ嬉しき」
「明日よりは 誰にはばかる ところなく 弥陀のみもとで のびのびと寝ん」
「日も月も 蛍の光 さながらに 行く手に弥陀の 光輝く」
大罪を犯したあの東条英樹が、阿弥陀仏の救いに値えたこと一つが有り難かったと、このような歌を遺したことを、印象深く覚えていたのです。
そんな疑念を払拭したくて、『歎異抄』の解説書も5、6冊読みました。中には、本願寺の勧学や龍谷大学教授の本もありましたが、さっぱり分かりませんでした。
「『歎異抄』でいわれる悪人とは私のことだった……」
疑問が晴れたのは7年前です。チラシを見て参加した親鸞会の勉強会で、「『歎異抄』の解説書は難しくてね……」と講師に漏らした時、「〝赤い歎異抄〟がいいですよ」と勧められたのが、『歎異抄をひらく』だったのです。
翌日、書店で求め、すぐに拝読し始めると、「悪人」の意味がハッキリ示されていました。
大曼の難行までなされた親鸞聖人が、「地獄しか行き場がない」と吐露なされているのにまず、驚きました。さらにこの告白は、聖人のみならず、古今東西万人の偽らざる実相だと前置きされ、「聖人の言われる『悪人』は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば『人間の代名詞』にほかならない」と、断言なされているではないですか。悪人とは、東条のような犯罪者だけではなく、すべての人のことであり、私のことだったとは……。
聞法を続けるうちに、じわじわとその深意が知らされてきました。
ある講演会で、浦島太郎は1匹のカメを助けることはできても、何千何万の魚の命を奪う釣竿を折ることはできないとお聞きしました。殺生を重ね、悪を造らなければ生きていけないのが人間なのだと分かりました。
また、別の勉強会で、「心を全て、他の人に見せられますか」と講師から問われた時、「とても無理だ。欲や怒りの煩悩で汚れ切っている……!」と気づいたのです。
ところが弥陀は、そんな悪人を必ず助ける本願を建てられ、「弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされる」(『歎異抄をひらく』)とも教えていただき、ますます聞かずにおれなくなりました。
今、私が認識している悪は、氷山の一角に過ぎない。ツユチリの疑いなく、自己の実機を照らしていただけるところまで、仏法を聞かせていただきたいと思います。
『歎異抄』を縁に、尊い仏縁を結ばれた髙栁さんは、今では、話さずにおれないと、自宅をたまたま訪ねた知人にも、親鸞聖人のみ教えを喜びいっぱい、伝えているそうです。
そんな魅力にあふれた『歎異抄』、あなたも、ぜひ手に取ってみてくださいね。
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