浄土真宗で位牌を置かない本当の理由 真の供養とは?【浄土真宗の教え】
浄土真宗は他の仏教宗派と違い、仏壇に位牌を置きません。そのため葬儀の時に戸惑われる方も多いようです。なぜ浄土真宗では位牌を置かないのか。今回は、その理由をまとめてみました。
「位牌」とは、亡くなった方の戒名や法名などを木の板に記したものです。位牌には「故人の魂が宿っている」と信じて供養のためにと仏壇に置いている家も少なくないでしょう。
ところが浄土真宗では仏壇に位牌を置きません。そのため、葬儀の時に戸惑われたり、問い合わせをされる方も多いようです。
なぜ、浄土真宗では位牌を置かないのでしょうか?もちろん、それにはちゃんと理由があります。今回は「浄土真宗で位牌を置かない本当の理由」をまとめてみました。
位牌に故人の霊が宿っているわけではない!?
驚かれるかもしれませんが、もともと仏教には「墓」も「位牌」もありませんでした。
「位牌」を「故人の魂が宿っているもの」として葬儀に取り入れたのは、中国の唐の時代の禅宗だといわれます。それが日本に伝わり、江戸時代に庶民に広まりました。
しかし仏教には本来そのような教えはありません。人は死ねば各自の業(ごう)によって次の世界に生まれるというのが仏教の基本的な教えだからです。次のエピソードでも、それは分かります。
「お経を読むと、苦しみの世界に沈んだ人でも極楽へ浮かぶことができる、という人がありますが、本当でしょうか」
とお尋ねすると、お釈迦様は黙って小さな石を手に取り、近くの池に投げられた。波紋を描き、沈んでいく小石を指されながら、
「おまえは、この池の周りを、石よ浮かびあがれ、石よ浮かびあがれ、と言って回ったら、石が浮かんでくると思うか」
と問われた。
「いいえ、お釈迦様。そんなことで石が浮かぶはずはありません」
と弟子が答えると、
「そうだろう。石は石の重さで沈んだのだ。どれだけ浮かび上がれといったところで浮かぶものではない。人は、各自の業(ごう)によって次の世界に沈むのだ」
と答えられたという。
位牌や読経は先祖供養にならない!?
世間一般の常識では、位牌をつくり、僧侶にお経を読んでもらえば、故人の霊が浮かばれ、供養になると思われていますが、じつはお釈迦様は「そうではありませんよ」と教えられているのですね。常識破りもいいところでしょう。
その本当の仏教を伝えられた方が親鸞聖人です。だから浄土真宗では、供養のために読経したり、位牌を置いたりはされません。親鸞聖人ご自身、「私は父母の孝養(供養)のために念仏を称えたことは一度もない」と言われたことが『歎異抄』という本に記されています。
そもそもお経は、生きている人が、生きているときに、本当の幸せになるために説かれたもの。仏教は生きているときに聞いてこそ意味があります。生きている今、仏教を聞き、本当の幸せになった人は、来世は必ず浄土へ往けるというのが浄土真宗の教えですから、いずれにしても、死んで墓の下や位牌にいられるものではないことが分かります。
江戸時代、浄土真宗のある人が、臨終に「おまえが死んだら立派な墓を造ってやるからな」と友人に言われた時、「オレはそんな石の下におらんぞ」と言って、息を引き取ったという有名な逸話もあります。このように、本当の仏教をまっすぐ受け継いでいるのが、浄土真宗なのですね。
「位牌を置かないなら仏壇は何のためにあるの?」と思われる方があるかもしれませんが、仏壇は「先祖(位牌)をまつるところ」ではなく、仏さまをご安置するところです(先祖=仏ではありません。くわしくはこちら)。浄土真宗でお仏壇にご安置する仏は「阿弥陀仏」という仏さまです。
本当の供養とは何か?
このような仏教の教えを知られても「位牌がないと、きちんと供養できていない気がする」「心の拠り所としての役割もあるのでは……」といった疑問が残るでしょう。その疑問は、本当の供養とは何かを知れば解消されると思います。
浄土真宗は、ただ位牌や読経をしても供養にならないから置かない、でおしまいではもちろんありません。本当の先祖供養とは何か、どうすることが供養になるのか、ということも、きちんと教えられています。それを知れば、浄土真宗で位牌を置かない理由がより深く分かるでしょう。
では、浄土真宗では、本当の先祖供養をどう教えられているのでしょうか。
それは「私が幸せになること」です。「?」と思われるかもしれませんが、難しい話ではありません。「先祖の供養」とは「先祖が喜ぶことをすること」だからです。
「先祖が最も喜ぶこと」とは、例えば「私が元気でいること」「笑顔でいること」「落ち込んでいないこと」「転んでも立ち上がること」……いろいろな言い方はあるでしょうが、一言でいえば「正しく幸福に生きること」に違いありません。それは先祖を呼び出して尋ねるまでもなく、私たちが自分の子供に何を願うかを考えてみれば分かります。
例えば、向田邦子さんに、『字のないはがき』というエッセーがあります。その一部を引用してみましょう。
終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。
(中略)
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。
一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。
紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。
付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。
ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。
情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。
下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。
まもなくバツのはがきも来なくなった。
三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。
(中略)
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。
茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
(平成18年版 中学校『国語2』 光村図書出版)
向田さんの言葉を借りれば、
「紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マル」
が届けば、親はほっとして喜べるでしょう。
反対に「小マル」や「バツ」なら心を痛め、心配で悲しむはずです。
そのように「私が幸せになること」が、親や先祖の最も喜ぶことであり、本当の供養なのだと仏教では教えられるのですね。
では、どうすれば私たちは幸せになれるか、ということですが、お釈迦様も、親鸞聖人も、それは生きている今、阿弥陀仏の本願を聞きひらき、絶対の幸福になることですよ、と教えられています。
だから弥陀一仏に向かうように、お仏壇の中には阿弥陀仏以外のものは置かないほうがよいのです。
浄土真宗で位牌を置かない理由は、本当の供養と深い関係があるのですね。
まとめ(浄土真宗で位牌を置かない本当の理由)
- 第1の理由~位牌に死者の魂が宿るというのは、本当の仏教の教えではないから。
- 第2の理由~弥陀一仏に向かい、真の供養をする(=私が本当の幸福になる)ため。