「最近、仲の良かった友人が立て続けに亡くなってねえ……。寂しくなった……」
知人の男性がポツリ、つぶやきました。あなたの周りでは、いかがでしょうか。
年を重ねるごとに、訃報を聞く機会が増えてきます。
知人、友人、両親、家族……、相手が大切な人であればあるほど、その悲しみは深いものです。多くの人がそんな死別の悲しみを抱えながら、生きているのだと感じます。
富山県高岡市の伊東文平さん(77)も、そうでした。
でも、今ではイキイキと笑顔が輝き、喜びにあふれています。何があったのでしょう。
50年連れ添った妻・佐代子さんとの死別の悲しみの絶望から生き返った経緯をインタビューしました。
認知症の妻が徘徊した末に……
──佐代子さんは、どんな方だったのですか。
「友人が多く、年に1度は旅行に出掛ける活発な女性でした。北海道から九州、トルコやスイスにも行ってね。アメリカ本土とハワイは、私も一緒に旅を楽しんだんですよ」
──仲の良いご夫婦だったのですね。
「ところが3年前、妻は認知症と診断されて、近くの病院に入りました。それからは、白い壁に囲まれ、ほとんど会話がなく、ただじーっと1点を見つめているだけの生活になってしまった。笑顔の絶えなかった妻が、2年経った頃には、ニコリともしなくなって。
これではますます悪くなってしまうと思い、家に連れ戻したいと病院に掛け合ったんです。
『試しに1カ月、自宅と病院で1週間ずつ、交互に過ごしてみましょう』と提案され、自宅にいる間は、階段の上り下りも妻の手を取って、ほとんど付きっ切りで過ごしました。
きっと妻はよくなる、治してみせるとの意気込みで、1カ月後、正式に退院させたのです」
──奥様、喜ばれたでしょうね。
「はい。退院前から『いつ、家に帰れる?』と、10分間に5回も尋ねてきました。
認知症で、聞いてもすぐ忘れてしまうからですが、それほど帰りたかったのでしょう。
不自由な入院生活ではできなかった、やりたいこと、好きなことを、思いきりさせてやりたい、それが妻の幸せのため、そう思っていました。だから、玄関にもカギを掛けませんでした。
ところが、自宅に帰って4日目、朝、目覚めたら、妻がいません。
徘徊?まさか……と思いました。
それまで1度もそんなことはなかったんです。
心当たりの場所を捜し回りました。
でも、どこにも見当たりません。
警察に届けも出しました。
それでも1週間たっても2週間たっても、妻は見つかりませんでした。
どこに行ったんだろう。
今、何をしているのだろう。
そんなことばかり考えているうちに1カ月が過ぎ、2カ月が過ぎたある日、自宅近くの用水路で、妻の遺体が発見されました。
自宅を出た直後に転落し、亡くなっていたのです。
水路にフタがしてあったため、発見が遅れたのでした。
2カ月ぶりに、妻は無言の帰宅となりました。72年の生涯でした」
──どんなに、おつらかったことでしょう。
「人の一生とは何とはかないものか、深く考えずにはおれませんでした。
そして、妻ばかりではない。やがて自分の一生もあっという間に終わってしまうのだと知らされました。
現役時代は、プラスチックの会社で、海外にも赴任し、部長職に就くまで頑張ってきた。
退職後も、健康のために農作業をしたり、映画を見たり、好きな音楽を聞いてそれなりに過ごしているはずが、これだけでいいのかな、何か足りないという思いがずっとありました。
妻を失ってなおさら、何のための人生なのか、と思わずにおれなかったのです」
死別の悲しみを縁に考えた「なぜ生きる」。答えを知って大転換
──そのお気持ちが、明るく変わられたきっかけを聞かせてください。
「ある日、歯の治療で通っていた射水市の病院の待合室で、1冊の本を見掛けました。
タイトルは、『なぜ生きる』。思わず手に取りました。
『苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か』の問いかけに、強く引き付けられていきました。 やがて治療の時間が来たので、長い時間は読めなかったものの、『なぜ生きる』の5文字が強烈に心に残りました。
その後、再び、『なぜ生きる』を手にし、そこに書かれていた親鸞聖人の教えに答えがあるかもしれないと思いました。
近所で、浄土真宗親鸞会の法話があることを知り、続けて、親鸞聖人の教えを聞かせていただくようになったのです」
──仏法を聞かれて、いかがでしたか。
「親鸞聖人の教えの一枚看板は、『平生業成』と聞いて、驚きました。
「平生」とは現在のことで、人生の目的を「業」で表し、完成の「成」と合わせて「業成」といわれる。
「平生業成」とは、人生の目的が現在に完成できるから、完成しなさいと教えられた言葉だったんですね。
うちも浄土真宗なんですが、仏教といえば、葬式・法事をするもの、死んでから用事のあるものとばかり思っていました。
よく考えてみれば、お釈迦さまだって、死人に説法されたわけじゃない、生きている人に説かれたんですよね。
仏教は、生きている私のための教えだったのかと初めて知りました。
はかない一生ではあるけれども、その一瞬の人生に目的がある。それを知らされて、人生が生き返ったのです。
親鸞聖人から人生の目的を教えていただいて、本当によかった。そのきっかけを与えてくれた妻に、心から感謝しています」
──ありがとうございました。
苦悩の底から喜びの人生へ。大転換できるか否かは、生きる意味を知るか否かにかかっていると、伊東さんの屈託のない笑顔が、語りかけてくるようでした。