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死別・仏事

愛妻と60代で死別 悲しみが大きな意味をもって人生を輝かす

愛し、愛された人との別離は、誰にとっても大きな試練の一つでしょう。最愛の妻の死に直面した福井県の山形良夫さんを、悲しみの淵から立ち直らせたものは、どんなことだったのでしょうか。

人生には、いろいろな苦難がつきものです。
中でも大きな試練は、愛し、愛された人との別離でしょう。愛する人を失くした時、「死別の悲しみ」に、どう向き合ったらいいのでしょうか。

この記事では、専門家が教える5つの対処法と、60代で最愛の妻を亡くし、妻が死んだ事実すら受け入れることができなかった一人の男性が、悲しみの淵から立ち直るまでのドラマを通して、力強く生きるヒントをお伝えします。

「死別の悲しみ」は深いもの

「妻を亡くしました。無気力・無関心になりました。寝てばかりいます。涙もろいし、死にたくなります」

「夫と死別しました。つらいです。つらいです。つらいです。夜、眠れません。睡眠薬を処方してもらいましたが、しんと静まり返った夜は、つい気持ちが沈んでどうしようもなくなります」

死別の悲しみは、深いもの。愛する人との別れを嘆く書き込みが、ネット上でもあとを絶ちません。相手を深く愛していれば、別離の悲しみもまた、深くて当然です。悲しみの深さは、生前、その人と過ごした日々の、喜びの深さともいえるかもしれません。

「死別の悲しみ」の5つの対処法

愛する人を失くした時、「死別の悲しみ」に、どう向き合ったらいいのでしょうか。
まずはじめに、カウンセリングの専門家が教える5つの対処法を、お伝えします。

(1)悲しい時には、悲んでいい

悲しい時、無理に明るく振る舞う必要はありません。悲しい時は、思いっきり泣けばいい。悲しんでいいんです。大切な人を失った悲しみが、一夜で癒えるはずがないのですから。
むしろ、しっかり喪に服することも大事ではないでしょうか。

(2)つらい気持ちを言葉にする

家族や友人、知人など、周りに聞いてくれる人があれば、今のつらい気持ちを言葉に出してみましょう。すると、少しずつ、心が落ち着いてくるものです。身近に適当な人がいなければ、日記をつけるのも一法。自助グループに助けを求めてもいいでしょうし、悲しみがあまりに深く、体にも影響する時には、専門のカウンセリングを受けてみるのもよいでしょう。

(3)休憩を取って、心と体を癒やす

事情が許す限り、できるだけ休憩を取りましょう。好きなものを食べ、好きなことをして、ゆったり暮らす。気が合う友人と、温泉などに行くのもいいです。心身ともに、リラックスさせましょう。

(4)悲しみは時間が解決すると知る

悲しみは一夜では癒えませんが、しかしまた、どん底のつらさが、永遠に続くものでもありません。愛する人を失ったという、喪失感から立ち直るには、一般に、次のようなプロセスを経ると言われます。

喪失感から立ち直る3つのプロセス

  1. 否認……「あの人が死んだなんてウソだ!そんなこと、あるはずがない」と、事実を受け入れられず、否認する。
  2. 絶望・無気力……葬儀も済み、本当に死んだのだと認識すると、「最愛の人を失って、これからどう生きて行けばいいの……」と、絶望したり、何もする気が起きなくて、無気力になったりする。
  3. 受容と回復……愛する人の死を受け入れ、その上で、自分なりの人生を歩み出す。

人間は、「忘れる動物」とも言われ、こんな言葉もあります。

「忘却とは腐敗菌のように有り難い」

「過去の一切が、ハッキリ記憶に残っているとしたらどうだろう。
おそらくみんな生きていけないに違いない。
もし腐敗菌がなかったら、地球上は動植物の死骸で充満し、我々の生きる余地がなくなるのと同じである。
忘れて他人に迷惑かけてはならないが、忘却とは腐敗菌のように有り難いものといえよう」

死別の悲しみもまた、時とともに、薄らいでゆくものです。
やがて時間が解決してくれると知ることは、今、とてもつらいあなたにも、希望になるのではないでしょうか。

(5)「愛する人の死別」というつらい体験を、意味ある体験に変えよう

さらに積極的に、「あの人との別れはつらかったけど、それには、大きな意味があったんだ!」と思えるようになれば、前向きに、力強く、生きていけるようになるでしょう。
ここまで来れば、そんなつらい体験をしたことのない人以上に、幸せになれる可能性を持っています。

集中豪雨が、妻の命を奪い去った……

では、「愛する人の死別というつらい体験を意味ある体験に変える」とは、具体的にどういうことなのか。

60代で最愛の妻を亡くした福井県の山形良夫さん(仮名・76)に、悲しみの淵から立ち直るまでの道のりを、語っていただきました。

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7月19日は、忘れられない日です。最愛の妻・明美が、この世に生を受けた日。そして、福井の集中豪雨が、妻の命を奪い去っていった日……。


「普通じゃないぞ……」
雷が鳴り響き、バケツを引っ繰り返したような雨の降り方に、何か胸騒ぎを感じました。

平成16年7月18日、午前8時半頃のことです。家の北側2メートルわきを流れる川の水量は一気に増加し、そのうち家の前はひざまで水浸し、歩行もままならない状態になりました。それから、2時間たった頃でしょうか。

ガーーッ、ゴドゴドゴド!!

上流の堤防が決壊、川の水が家の南側にも押し寄せ、辺り一面、腰までつかるほどの水沼と化したのです。南北を濁流に挟まれ、慌てて公民館へ避難しました。

嵐が去った昼過ぎ、家に戻ると、目も当てられない惨状でした。激流で、川の側面のコンクリートははがされ、重さ50キロのガスボンベは、2本とも配管からちぎられ、影も形もありません。バイクも車も浸水し、台所の床はえぐり取られ、家の基礎まで流されたのです。
パニックでした。泥水の悪臭が立ち込める中、翌19日は、朝から晩まで散乱したゴミの処理に、妻と2人で掛かりきりでした。

その晩のことです。妻が、心身ともに疲れ果て、倒れてしまったのです。
救急車で病院へ運ばれ、医師から、「奥さまの心臓が弱っています」と告げられました。医師たちは懸命に、妻に電気ショックを与え、心臓マッサージを繰り返してくれました。しかし、その甲斐もなく、愛する明美は、61歳の誕生日に生涯を閉じたのです。

「ついさっきまで、あんなに元気だったのに……」。命のはかなさを痛烈に知らされました。

しかし、突然の妻の死を悲しむ間もなく、葬儀の手はずを整え、親戚の対応、泥の処理と、てんてこ舞いに動き回るよりありませんでした。忙しさに、涙も出なかったのです。
葬儀が終わっても、妻が死んだという事実を、しばらく理解できませんでした。まだそばにいるのではないか、横で寝ているのではないか、いつか戻ってくるのではないか、そう思えてなりませんでした。

「妻はもう、この世にいないんだ」

2年ほどたった、ある日の夕暮れ時、ふと、「明美の帰り、遅いなぁ。買い物にでも行ってるのかな」と思われ、なおも妻の帰りを待っている自分に気がつきました。
しかし、どれだけ待っても妻は、絶対に帰ってはこないのです。

妻とは別れてしまったのだ、

もう、この世にはいないんだ。

あぁ、一人になってしまった……。

底知れない寂しさと悲しみに襲われ、一人、部屋で泣き崩れました。振り返れば16の時、母は肺炎を患い、42歳でこの世を去りました。そして父は、58で他界したのです。

人は必ず死ぬ。

一人残された人生、何のために生きねばならぬのか。

考えずにおれませんでした。

「妻の死には、大きな意味があった!」

そんな7月のある日、1枚のチラシが舞い込んだのです。
「幸福はどこからやってくるのか。親鸞聖人は、『正信偈』にハッキリ教えておられます」。やさしい言葉が素直に心に入ってきました。
「これは、何が何でも行かんならん」。迷いなく、その講演会に参詣し、8月に勤められる「追悼法要」で初めて、富山県の二千畳もあるという会館に参詣しました。

「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」

蓮如上人の「白骨の御文章」のお言葉が、心にしみ通りました。

「全く、そのとおりだ。
無常の嵐が、自分に襲いかかってくるとは思っていなかった。
人が先に死ぬのではない。次は私の番だ。
父も母も、妻も、身をもって私に無常を教えてくれたのだ」

親鸞聖人のみ教えを続けて聞かせていただくうちに、無常の世に、永久に崩れぬ幸せになる身に救われることこそ、人間に生まれてきた目的なのだと知らされたのです。
妻があんなに早く他界しなければ、私は仏法を聞こうとはしなかったでしょう。二親とも若くして亡くしておりながら、驚かない私に、妻が無常を知らせてくれたと思わずにおれません。親鸞学徒となった喜びを胸に、永遠不滅の幸福に救われるよう、妻の分まで光に向かって進ませていただきます。

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かくて山形さんは、最愛の奥さんの死に「大きな意味があった!」と知らされたのでした。
世の無常を見つめることは、いたずらに暗く沈むことではなく、日輪よりも明るい未来につながっていることを山形さんは、教えてくれています。

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